アニメについて
【アニメの歴史】
世界
アニメとは、英語のアニメーションの略ですが、動作や形が少しずつ異なる絵や人形を、ひとこまずつ撮影し、映写した時に画像が連続して動いて見えるようにするもののことを言います。このアニメーションの原点となったものは、19世紀のピーター・マーク・ロジェによる残像の研究まで遡ることができるでしょう。ピーター・マーク・ロジェは、映像は次の映像がやってくるまでの瞬間、眼の中にとどまっていることをつきとめ、1824年に『動体に関する残像』(Persistence of Vision with Regard to Moving Objects)を出版しました。
この本の中で、ロジェは「運動の印象は記憶の中で一つのイメージが消え、その次のイメージが加わるために生じる」と解説しています。つまり、これがアニメーションの原理として知られるようになり、その後、この残像を利用し、動く絵を見せるフェナキスティスコープやゾーイトロープなどの玩具が考案、販売されました。
1892年には、フランスにおいてエミール・レイノーが、テアトルオプティークと呼ばれる動く絵を投影する装置を完成させます。これは帯状のゼラチンフィルムに手書きで別々の人物と背景を描き、プロジェクターで同時にスクリーンに投影する装置で、『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品があり、これが最初のアニメーションとされています。
さらに、リュミエールをはじめとした発明家により映画が誕生しますと、ストップモーション撮影を使ったトリック映画が流行するようになります。アメリカのジェイムス・スチュアート・ブラックトン監督は『愉快な百面相』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)で、黒板にチョークで絵を描き、実写と絵のコマ撮りを組み合わせた線画アニメを試みたり、1902年のメリエスの『月世界旅行』では、ロケットが港に戻るシーンで、静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りするアニメーショントリックが上映されました。その後、アメリカにおいては、1928年からアニメーションの黄金時代が始まります。
実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画ということでは、フランスのエミール・コールによる『ファンタスマゴリー』(1908年、原題:Fantasmagorie)が、世界最初の短編アニメーション映画ということになります。また、世界初の純粋長編アニメーション映画では1917年にアルゼンチンのキリーノ・クリスティアーニによって製作された「使徒」という作品が最初の長編アニメーションになります。この作品は、5万8000千枚の動画からなる1時間10分の作品で、当時の大統領を風刺した作品でした。
現代のアニメーションにはセル画は欠かせないものですが、この技術は1914年にアール・ハードによってすでに開発されます。しかし、当時はまだ背景を印刷した紙にペンで描くという、大変な労力をかけて作るのが一般的でした。また、アルゼンチンやドイツなどでは、切り紙や人形アニメなども盛んに作られていました。
アジアにおける最初の長編アニメーション映画は、1941年に中国において万籟鳴と万古蟾の監督による『西遊記 鉄扇公主の巻』とされています。1942年には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の手塚治虫に影響を与えると共に、海軍省に長編アニメーション映画『桃太郎海の神兵』(1945年)を制作させる動機となったと言われています。
日本
日本では江戸時代に覗きからくりなどの動きを持つ画を投影・展示する技術がありましたが、日本において最古のアニメとして記録にのこされているものは、大正期のもので、外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて製作されたと言われています。下川凹天、幸内純一、北山清太郎らが、日本のアニメの創始者として位置付けられています。ただし、明治40年代のものとみられるフィルムが2005年に発見されており、日本のアニメの記録がさらにさかのぼる可能性もあるようです。
アニメの形式としては、1930年前後にセル画が使われ始まるまでは、切り絵によるアニメが主流でありましたが、フランスのエミール・コールの短編アニメに影響を受けて、下川凹天が1916年頃、ブラックトンと似た方法を用い製作した作品が、日本で最初の短編アニメーション映画とされています。なお、人形アニメーションは1935年に政岡憲三がはじめて試みたとされ、さらに持永只仁が1947年に中国の撮影所のスタッフを指導して最初の長編人形アニメーションを製作しています。
日本のアニメ映画の歴史は古く、短編では、反戦アニメ『煙突屋ペロー』(1930年)や、漫画を原作にもつ『のらくろ二等兵』(1935年)があります。第二次世界大戦を迎えると、戦意高揚を目的でアニメが製作され、瀬尾光世監督の『桃太郎の海鷲』(1942年、37分)が日本初の長編アニメーションとして製作されます。さらに、1945年には松竹動画研究所により『桃太郎 海の神兵』(74分)が製作され、当時は、軍部の潤沢な予算があり、それが日本アニメの技術力の向上に繋がったとの評価もあります。
さて戦後になりますと、アニメ専門の会社が誕生します。1956年に「東映」がアニメスタジオ「東映動画」を発足します。「東映動画」は東洋のディズニーを目指し、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』(1958年、79分)を制作し、海外へも輸出します。また、1961年には手塚治虫が「虫プロダクション」を発足させ、日本で最初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963)を製作します。さらに日本初のテレビアニメからの長編アニメ映画『鉄腕アトム 宇宙の勇者』』(1964年、87分)を制作します。ちなみに、テレビで放映された『鉄腕アトム』は白黒映像でしたが、実際のアニメはカラーで製作されていました。
テレビアニメの始まり
日本でテレビ放送が開始されたのは、1953年のことです。最初にテレビでアニメが放映されたのは、番組内の一コーナーとして製作され、一回の放送も数分程度のものでした。また、テレビCMなどにもアニメーションが用いられるようになります。
アニメを主目的にした番組ということでは、1960年1月15日に30分番組として一回放送された『3つのお話』(NHK)とされ、中村メイコのトークに実写を交えて3つの童話をアニメ化しました。しかし、当時アニメーションの製作には大変長い時間と、制作費がかかるというのが当時の常識で、NHKと民放とを問わず『ポパイ』・『恐妻天国(後に『原始家族』として再放映)』・『宇宙家族』などの海外のアニメが主に放送さていました。そのような状況において、1963年、手塚治虫の「虫プロダクション」を製作、日本で最初の本格的連続テレビアニメ「鉄腕アトム」が誕生することになります。
原作者の、アニメの製作が日本でも可能だということを示す必要があると考え、長い製作期間と高い制作費が必要だというこれまでのアニメ製作の常識を覆す試みを行います。そしてそのことが、新しい日本独自のアニメ技術を生み出すきっかけにもなっていきます。
極端に低い制作費で番組制作を請け負った手塚治虫は、その予算でアニメ製作を可能とするため、リミテッド・アニメという手法を用います。リミテッド・アニメとは、キャラクターの体はそのままで目や口だけを動かしたり、画面内の多くのキャラクターのうち、1,2名のみが動いたりするような、いわゆる動きを簡略化しセル画の枚数を減らすアニメーションの表現手法で、旧来のリアルな動作を追求したフル・アニメーションに対し、アメリカのアニメーション制作会社UPAにより導入されたものでした。
リミテッド・アニメは、もともと表現手法の一つとして考案されたものでしたが、やがてハンナ・バーベラなどにより、専ら省力化のために使われるようになっていきます。手塚治虫はこの手法を「鉄腕アトム」にも取り入れることによって、制作費や制作時間を削減していくことを考えました。そして、このリミテッド・アニメの手法は日本においてより洗練され、現在の日本のアニメの発展に大きく寄与していくことになります。
また、低予算での製作を可能にするために、バンク・システムと呼ばれる、フィルムの使いまわしを多く用いたり、静止画を多用するなどの工夫も多く見られました。こうして、日本におけるアニメの低予算化は、「鉄案アトム」を基準に長く続いていくことになります。
しかし興味深いことに、低予算だったため、ベテラン映像作家たちはあまりアニメを製作せず、逆にこれが若いアニメ作家を多く育てていくことになります。経験不足は否めませんでしたが、絵の荒さを補うために、脚本やストーリーを重視し、それがまた日本特有の作家性の高い作品が生まれ、映画のように監督、脚本家、演出家などが視聴者に重要視されるようになっていきました。
また、低予算であるということは、新規参入するアニメスタジオの門戸を広く開けることにもなり、日本のアニメ界は黎明期から数多くのがアニメ会社が設立され、数多くのアニメが製作されていきました。さらにテレビ局も、低予算のわりにアニメは人気があったために、次々とアニメを発注していきました。この相乗効果によって、日本のアニメ文化が大きく成長していくことになります。
玩具やお菓子、文具メーカーなどが、アニメのキャラクターの絵のついた製品の製造権を売るようになると、メーカーは、製品の在庫が払底するまでは、突然にスポンサーを降りるということもなかったので、ある程度長期見通しを持って番組制作を続けられるようになりました。その結果として、これまで一話完結のスタイルが多かったのが、長いストーリー展開がある番組も作られるようになりました。続きもののストーリーをもつアニメのごく初期のものとしては、巨人の星(1966年)などが有名です。
1964年になると、テレビ界における大きな節目の年を迎えます。カラー放送の開始です。カラー放送が始まるまで、当然のことながらテレビアニメはすべて白黒でした。最初のカラーテレビアニメは、「ジャングル大帝」(1965年)でした。カラーは製作費がかかるため、アメリカでの放映を前提に資本が集められたと言われています。この後も数年間は制作費の問題から、カラーアニメと白黒アニメが混在する形で進行していきました。
OVAが登場
1980年代になると、OVAと呼ばれるアニメが登場します。これは、劇場用映画として上映されたり、テレビアニメとして放映されないアニメの総称で、主に、ビデオ(現在はDVD)ソフトの形で販売される形式をとったアニメです。最初のOVAは、ダロス(1983年)という作品で、元々『魔法のプリンセスミンキーモモ』の後番組のTVシリーズとして企画されていたのですが、同作の放送延長が決まったため一度は立ち消えになったものを、OVAという形で、世界で始めて販売されました。第一巻は1万本が販売されました。その後、続々と新作OVAがリリースされ、現在では日本アニメの柱の1つになっています。
OVAは作品を購入できるある程度収入を持つ独身男性をターゲットにしたものが多く、その結果、アニメは、低年齢・ファミリー向けのテレビ番組と、高年齢層向けのOVAに、二極分化し、もともと子ども向けだったアニメの対象年齢が、1990年代以降、40歳代前後まで広がっていきます。
CGアニメの登場
1996年ごろを境に、カラー化に次ぐ新たな技術革新が起こります。それはコンピューターを駆使したアニメーション、いわゆるコンピューターグラフィックの登場です。コンピューターを使用した最初の連続アニメは、「ビット・ザ・キューピッド」(1996年放映開始)です。作品自体、特に大きな反響をひきおこしたわけではありませんでしたが、世界初の連続CGアニメーション番組であることから、日本のアニメ史において重要な位置を占める作品となっています。
その翌年、東映動画では、アニメの彩色をすべてコンピューター化しました。その結果、使用可能な色数はそれまでの80色程度から一気に1600万色となりました。アニメのコンピューター化は、技術革新のみならず、たとえば、海外の下請けスタジオまで原画を直接ネットワークで送り、完成したデータを再びネットワーク転送で受信するという、国際的分業を可能としました。
アニメ映画
日本のアニメ映画は、すでに記述しました『煙突屋ペロー』(1930年)や、『のらくろ二等兵』(1935年)、『桃太郎の海鷲』(1942年)など、古くからありますが、戦後の長編アニメ映画は、東映動画と虫プロダクションだけの時代が続きますが、製作された数は少なく、東映動画作品は年に1~2本程度、虫プロダクションはそれよりも遅いペースでした。
1970年代に入ると、テレビアニメを単に再編集した作品が多く上映され、熱心なファンは、テレビのシーンが再び劇場の大スクリーンで見られるというだけで、喜んで劇場まで足を運びました。ヒットした作品としては、『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)などがあります。
1980年代に入ると、テレビの再編集アニメに加え、『AKIRA』などのテレビアニメ以外のアニメ映画も多く作られるようになります。さらに、東映まんがまつりに代表されるような、テレビアニメでの人気作を数本立てで上映したり、宮崎駿作品が生まれるのもこの時代であります。
2000年代になると、アニメなしでは日本映画は成り立たないとまでいわれるほど、アニメ作品の比重が増加しました。キネマ旬報によると、2002年度の日本映画の興行収入10位までのうち6つがアニメというほどでした。
海外輸出の歴史
日本アニメは、海外においても高い評価を受け、テレビ、映画問わずたくさんの作品が輸出されています。輸出先の過半数は北米ですが、アジア、南米、ヨーロッパなど、全世界で幅広く放映されています。
本格的なアニメの輸出は、1963年、アメリカ合衆国で『鉄腕アトム』が放映されたことに始まりますが、『鉄腕アトム』は30カ国以上で放映されました。これを皮切りに、1970年代までにかけて『ジャングル大帝』、『エイトマン』、『マッハGo Go Go』、『科学忍者隊ガッチャマン』、『宇宙戦艦ヤマト』などがアメリカ合衆国で放映されました。
1989年には、『AKIRA』北米で公開され、日本のアニメは芸術的なものがあるという印象を与え、日本アニメの評価が変化しはじめます。90年代に入ると、『美少女戦士セーラームーン』、『ドラゴンボール』、『遊戯王』などが輸出され、1996年に、『攻殻機動隊』が、アメリカでビデオソフト週間売り上げ1位を記録します。アメリカで日本の映像作品がビデオ販売1位となったのはこれが始めてでのことでした。また、2000年代に入ると、『千と千尋の神隠し』アカデミー賞を受賞するなど、日本国内のみならず、海外からも高い評価をうけました。
ただし、日本の文化とまで言われるようになったアニメ作品ですが、すべての国で最初から受け入れられていたわけではありません。作品によっては、明確な拒否反応を示した国もいくつかありました。その理由の多くは、内容が暴力的であるとか、性的な表現を含むというものでした。国によってはそれらには過敏に反応し、かなり大きな内容の変更が行われた場合もあるようです。